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娘は『子宮内胎児発育遅延』での出産を乗り越え無事育ちました

我が家の娘は、結婚10年目にして初めての妊娠で授かった子供です。長い間、不妊治療も経験しての待望の赤ちゃんだったので、今でも当時の喜びは覚えています。ですが、その喜びも「束の間の喜び」となる「妊娠・出産」となりました。その理由は、題名にも触れている「子宮内胎児発育遅延」と産婦人科から診断されたからです。当時は、何が起こっているのか理解するまでにかなり時間が掛かりましたし、大学病院への緊急入院を余儀なくされるなど、夫婦共に重い現実を受け入れなければならない大きな出来事となりました。2ヶ月間の入院生活からの緊急出産、そして出産後のNICU(新生児特定集中治療室)の治療期間を乗り越えるなど様々な紆余曲折がありましたが、今では娘も大きく育ち、来年には小学校入学するまでとなりました。今思えば母子共に生死を分ける大変な「妊娠・出産」でしたが、生意気ながらも無事に育っている娘を見るたびに普通でいられることへの有難さや、当たり前の難しさを噛みしめています。

そんな我が家の「子宮内胎児発育遅延」と診断された「妊娠・出産」の些細な情報を出来るだけ分かり易くお伝えしたいと考えました。今妊娠中の方で同じ「子宮内胎児発育遅延」で悩んで苦しんでいる妊婦さんへ、少しでも安心してもらえる情報になればと思います。ただ同じ「子宮内胎児発育遅延」でも様々な症例があると思いますので、分からないことがあればバンバン主治医に聞くことをおすすめ致します。

 

妊娠するまで

冒頭でも触れていますが、私たち夫婦は結婚10年目で初めて妊娠しました。結婚当初の2年間は子供はまだ早いと避妊を続けて、結婚生活も慣れ、そろそろ子供が欲しいと妊活を始めてみたところ思いのほか妊娠の兆しがなく、不妊治療も受けてみましたが成果が実ることはありませんでした。ちなみに不妊治療の診断では、共に特に身体の問題はなく、夫は精子検査で運動率の指摘があったくらいで妊娠への障害は見つからず、強いて言うなら夫婦の相性が問題と言われました。不妊治療は費用だけでなく精神的にも負担がかかるので3年で辞めてしまい、正直もう諦めていました。

ところが、忘れもしない2011年8月上旬のころです。永年の習慣で基礎体温だけは付けていたところ、なんと妊娠の兆候が。早速、薬局で妊娠検査薬を購入し、検査すると陽性の反応が出ました。当時の喜びは今でも忘れられません。早速インターネットで産婦人科を調べ、設備が整った、家の近所で通勤の負担にもならず通院できる産婦人科を見つけ翌日診察へ。まだまだ早い状態だったようで、結局母子手帳を貰えたのは9月の終わりでした。母子手帳を手にした時は、本当に妊娠しているのだと改めて実感したのを覚えております。そして特に主人の家族は初孫ということもあってみんな本当に祝福してくれました。

 

順調な妊娠初期から異変に気づくまで

9月になるとひどいつわりで体重が一気にダウンしました。特に白米の匂いが駄目で食パンを中心に食べていました。つわりが終わってからは、食べ過ぎと塩分の摂り過ぎには注意して、休みの日には主人と散歩するなど適度な運動も行っていました。11月ごろにつわりも終わり普通の食生活に戻したのですが、どうも体重が思うように増えず、お腹(胎児)もあまり大きくなりませんでした。家族や周りの友人にも「お腹が小さいね」とは言われていたのですが、私自身が元々身体が小さく、その影響かなとあまり気に留めていませんでした。しかし、翌年2月の最初の診断で赤ちゃんが全然成長していないと言われました。最初は何を言っているのか理解できませんでしたが、詳しく説明を聞くと赤ちゃんが本来必要な週数の体重に達しておらず、成長が止まっているとのこと。通院している産婦人科では対応が難しく提携先の神戸大学病院の産婦人科へ至急行って下さいと言われました。気が動転しながらも、早速翌日に予約を入れて主人と一緒に神戸大学病院へ行くことに。そして、設備の整った病院での診断結果は「子宮内胎児発育遅延」と分かり、即入院となりました。まだ勤務先には育児休暇を申請していない状況だったので、色々なことでパニック状態になっていたのを微かに覚えています。バタバタしながらも何とか翌日には入院することになり、本当にあっと言う間の出来事でした。出産予定日の4ヶ月前ことです。

まずここで幸運が2つありました

私が通院していた産婦人科クリニックには、緊急事態に対して提携病院があり、その一つが神戸大学医学部付属病院でした。そして、私はその神戸大学医学部附属病院に入院することになったのですが、そこには「総合周産期母子医療センター」というハイリスクな出産を抱える妊婦さんや胎児・新生児を対象に、24時間体制で最先端の治療・看護を提供してくれる施設があり、今回この大学病院の最先端施設へ入院できたことが娘が無事に出産し大きく育つことが出来た要因だと思っています。これは大きな幸運でした。そして、その施設は全国からハイリスクな出産を抱える妊婦さんが訪れるので、病室は常に満室状態でした。私が入院した時も緊急だったため、料金が安価な大部屋を希望していましたが、一泊1万円以上もする特別室に入室することになりました。ただ、私は一泊だけで大部屋へ移ることが出来ましたが、私の後すぐ入院された別の妊婦さんは何日も特別室で入院されていたので、正直料金面でも幸運だったと思います。

出産は常にリスクの有ることでは無いですが、万が一のことを想定して産婦人科を選ぶ際は、近場や施設の充実度だけてなく、緊急時の提携病院がどこなのかも選定基準の一つに選ぶことは凄く大切だと痛感しました。

 

入院して一番ショックを受けた初日

2011年2月初旬に入院して、初日に担当医と産婦人科部長の先生から話がありました。診察結果から言うと「とても危険な状態で産まれるかどうか分かりません」「産まれたとしても五体満足かどうか分かりません」と言われショックを受けたことを今でも強く覚えています。お腹にいる赤ちゃんは数値的に100人いる中で、2~3番目位に小さく、病的に小さいとのことでした。

この時点で原因は大きく3つあると言われました

  1. 胎盤の機能不全の場合、胎盤の働きが悪くて赤ちゃんが営業失調になっている状態。頭の育ちが良いが体が小さくなる。
  2. 赤ちゃんに原因がある場合、頭も体も小さい。染色体異常や胎児奇形、妊娠初期にウイルス感染が考えられる。
  3. 母体に病気がある場合、免疫の病気や糖尿病が影響している。

すぐに3番は違うと判明したので、1番か2番のどちらかが原因ということで、それぞれの細かい説明を聞き更にショックを受けることになりました。説明を聞いている最中は涙が止まらず、何がいけなかったのか?赤ちゃんが無事に産まれるのか?赤ちゃんに申し訳ないなど、ずっと自問自答していました。殆どの説明を主人が聞いている状態だったと思います。

それぞれ細かい内容と今後の対応についての説明は下記の通りです

  • 赤ちゃんが栄養失調で小さい場合は、栄養(カロリー)のある点滴を行う。
  • 先天異常がある場合は、治療はない。
  • 染色体異常の中で、産まれてすぐ亡くなってしまうような重大なものは超音波の検査では無さそう。大きな奇形は無いと思われる。ただ、これから検査を重ねていくにつれて赤ちゃんの異常が見つかる可能性はある。今から奇形になっていく訳てはない。
  • 今の段階で分かっているのは、胎盤の表面に出血の様な血の塊の部分がある。これが原因で赤ちゃんに栄養がいかなくなっているなど、何か異常がある可能性があるが、事例が少ないこともあり、今のところハッキリしたことは分からない。
  • 大きな染色体異常の有無は、羊水検査で分かることがあるが、今のところは超音波で明らかな奇形はないこと。針を刺すことで破水のリスクがあること。もし検査の結果異常が見つかっても中絶できる時期を過ぎていることから、積極的にはおすすめしない。
  • お腹の中にいる赤ちゃんにできる治療は少ない。カロリーのある点滴、お腹の張り止めの薬など、どれほど効果があるか分からない。そもそも、赤ちゃんに原因がある場合は、治療の効果はない。
  • 赤ちゃんが元気でいるかどうかをこまめにチェックすることが最も大切。もし2週間成長が見られない時は、帝王切開で赤ちゃんを外に出して育てた方が良い。また、モニターで赤ちゃんに元気が無い、しんどそうなサインが出てきた時にも、帝王切開を行った方が良いと判断する。
  • 最悪の場合、入院中であっても赤ちゃんがお腹の中で亡くなってしまったり、出産後にお腹の外で生きていけない程の病気や異常がわかることも残念ながらある。

上記のような説明が足早に行われた後、緊急に帝王切開になる可能性がゼロでは無いことや、順調にお腹の中で赤ちゃんが育ち何も無く産まれる可能性もあることなど、こまめに検査をしながら赤ちゃんを良い状態でお腹から出してあげることが出来る様に見ていくとのことでした。

一通りの説明が終わるとすぐに・・・

いつでも緊急手術が行える様に、色々な同意書にサインを求められました。当時の印象としては、もの凄く器械的に流れ作業の如く書類にサインを求められましたので、主人は一晩精査してからサインして提出すると伝え、それを了承してくれました。但し、本日緊急の手術が必要となった場合でも、同意書にサインが無い限り手術は行えないことを念を押されましたが・・・。

まぁ何かあった場合の訴訟問題があるのも理解できますが、当事者としてはパニック状態で冷静な判断はなかなか出来ませんよね。ただ、先生との話の後は、主人と今後のついて色々話し合い、やっと授かった赤ちゃんなので、どんな結果になっても、夫婦で頑張ろうと誓いました。

 

長い入院生活の始まり

人生で一番辛かった初日が過ぎてからは、毎日赤ちゃんの心拍数とお腹の張りを調べる検査を朝と夕方の2回行い、その合間に赤ちゃんを大きくするための点滴、そして週に1~2回の採血の繰り返しでした。気分転換に院内を歩きたかったのですが、お腹が張ってしまうので必要最低限の行動しかできず、好きな物を食べたくても私の場合、血圧が少し高かったため塩分のことを考え、病院食だけで我慢していました。言葉は悪いですが、監獄にいる気分でした。そんな私を気遣って主人がDVDの見れるパソコンを持ってきてくれたのは本当に嬉しかったです。他にも主人は毎日仕事終わりにお見舞いに来てくれ、土日は終日居てくれ、一緒にご飯を食べたり、DVDを見たり、色々話をしてくれたりと、自分も疲れているのにもかかわらず気を使ってくれて、今でも本当に感謝しています。その内、一緒に入院されている妊婦さんや看護師さん、病院の世話係の方とも仲良くなり、それなりに楽しく過ごせるようになりました。「総合周産期母子医療センター」はご飯も美味しく、掃除も行き届いており、シャワー室も使いやすかったのが印象的でした。不安な妊婦さん達に少しでも過ごし易い環境作りをしてくれていたんだと思います。

そして、入院生活20日間が過ぎたころから突然血圧がかなり高くなり、主治医から「妊娠高血圧症」と診断されてしまいました。以前は「妊娠中毒症」と言われていた病気で、高血圧やむくみが酷くなり、尚且つ、赤ちゃんの成長を妨げる厄介な症状に患ってしまいました。更なる苦難が降り注ぎ、当時は焦る気持ちが募るばかりでした。

 

そんな平穏な入院生活に突然・・・

それは入院生活一ヶ月が過ぎたころのことです。日付は2011年3月11日。そう、あの「東日本大震災」が発生したのです。私は丁度、テレビを見ながら心拍数とお腹の張りを調べる検査の最中で大きく揺れを感じたと思ったら、テレビが一斉にその画像を流し衝撃を受けましたのを今でも忘れられません。私の住むこの神戸でもあれだけ揺れたので、被害の規模は図り知れない大きさだとすぐに分かりました。私も主人も阪神大震災の被災者でもあったので、地震の恐ろしさは分かっています。それにあの津波の被害は言葉を失いました。それからは毎日、テレビで現場の状況を見ていてので何だか不安になり、胎児にも影響しないか心配になりました。そして、不吉な予感は的中しました。担当医から、私のお腹に「腹水」が溜まっていて、このままでは赤ちゃんも私も危ないということで急遽、帝王切開をして赤ちゃんを取り出すことになりました。幸いにも土曜日だったので、主人や主人の家族、私の家族も駆けつけ励ましてくれました。心強かったです。

そして、遂に手術が始まりました。帝王切開の手術は部分麻酔で、腹部だけが感覚が無い状態の中、腹の中に手が入って、かき回され、気持ち悪い感じでしたが、しばらくすると元気な産声が聞こえ、そんな辛さも吹き飛んだのをハッキリと覚えています。母親として初めての幸せな瞬間でした。赤ちゃんの姿と声を聴いて安心していると、次はお腹に溜まった「腹水」を取り出す作業が始まりました。これが本当に辛かったです。お腹の中を力いっぱい押されたり、動かされりと出産よりもこちらの方が大変でした。麻酔が効いている状態でこんなに辛いのは相当です。正直、二度と体験したくないですね。ちなみに私は出産後、腹部にチューブを2本刺された状態で2日間寝たっきりでした。

この出産は予定日より2ヶ月以上も早い出産となってしまいましたが、待望の「娘」が誕生しました。とても嬉しかったです。ただ、かなりの早産児だったため、出生時体重は1142gしかありませんでした。妊娠週数が32週しかなかったので覚悟はしていましたが、出産後も予断を許さない状況は続きました。当然娘はNICU(新生児特定集中治療室)へ直行です。私も主人も出産直後は娘を少しだけしか見れず、再会するのに丸一日掛かりました。

出生時の異常としては、極低出生体重児であり、呼吸窮迫症候群のため人工呼吸管理をして人工肺サーファクタント投与など様々な処置が摂られました。週数が少ないことで、肺が完全にできていない状態だと主治医から聞き心配でたまりませんでした。その後の経過では、出生5日目に体重が940gまで落ち、新生児黄疸や未熟児貧血などが出たと記憶しています。

後日談ですが、今回の妊娠で赤ちゃんが「子宮内胎児発育遅延」になってしまった原因が分かりました。どうも私の胎盤に問題があったみたいで、出産後、胎盤を摘出した際に判明したのですが胎盤の半分が壊死していたそうです。主治医曰く、この症例は今までに聞いたことがないので、大学病院で研究材料とさせていただきますと言われたのを覚えています。

 

赤ちゃんの入院生活から卒業まで

私自身は、出産後1週間で退院することができましたが、赤ちゃんはまだまだ予断を許さない状況だったので、NICUでの集中治療が続きました。毎日、赤ちゃんの容態を見に行くことと、搾乳した母乳を届ける日々が約2ヶ月間続き、その間に、赤ちゃんは光線療法や貧血の治療、早産児によく発生する網膜剥離のレーザー治療などを行いました。

当初、主人の両手に収まるほどの大きさだった体も、順調に大きくなっていき、生後50日が過ぎた頃には体重が1500gになり、晴れてNICUを卒業し、GCU(継続保育室)へ移動しました。そして、GCUでの生活が20日間経ち体重が約2200gになったのを機に待ちに待った念願の退院となりました。生後70日のことです。

ただ、退院前に赤ちゃんが鼠径ヘルニアであることが判明。未熟児には発生しやすく、成長すると脱腸の恐れもあるので手術する必要があると言われました。全身麻酔をするため、体重が5000gを超えた時点(退院3ヶ月後)で手術を行いました。

その後は、1歳の時に一度アデノウイルスで一週間入院することもありましたが、大きな問題も無く「子宮内胎児発育遅延」で出産し、極低出生体重児だったことも忘れさせてくれるほど元気に育ちました。そして、3歳を迎えた時には神戸大学付属病院への定期検査を無事に卒業することができました。

 

まとめ

永い様で、短く感じた「妊娠・出産・育児」。そんな怒涛のような状態で産まれた娘も来年には小学生になります。最近では竹馬や自転車に乗れるようになるなど活発に育ち、普通に生活できる有難さを日々感じています。色々辛い経験もしましたが、家族の支えもあって無事に「妊娠・出産」を乗り越えれたと思います。挫けそうな時も正直ありましたが、希望は一度も捨てたことは無かったです。今回の記事は、当時の日記を読み返し書きました。同じような悩みを持つ妊婦さんの応援記事になれば幸いです。